頭ン中をたれ流そう

とりとめのない頭の外部メモ帳

ヒトは連続体であるということ

ご挨拶

こんにちは

 

お久しぶりです。

人文社会科学系大学院生です。

昨年度末に修士課程を修了し、博士課程へと進学しました。

沼に腰ほどまで浸かっているかもしれません。

 

このブログについて、一昨年の6月に線香花火の話をしてからパッタリと更新が途絶えましたが、それは単純に書くことがなかっただけでもありますし、書くだけの動機を得られなかったこともあります。

 

ブログのきっかけ

そもそも、このブログを始めたきっかけを思い出してみれば、ツイッターと比べて、よりまとまった自分の脳以外の記憶媒体を求めていたからです。ツイッターに投稿する140字ではあまりにも伝わる情報が”零れ落ちて”しまっているように感じますし、やはり”つぶやき”であるということはそれ以上にも以下にもならないだけの独り言ちになってしまうからです。

 

もちろん、このブログも十分独り言ちではあるのですが、ツイートを連ねても意味のある文章として読まれることはないでしょう。それなりに意味を持った文字の連なりを表すには、やはりある程度の文章の長さと説明が必要なのです。

 

であるからして、脳内外部メモリとしての役割を大学院に入るまではこのブログが担っていたわけですが、幸か不幸か研究活動そのものが脳内外部メモリ化していて、ブログに文章を書き連ねることが必要じゃなくなりました。

 

ブログの価値

ですが、修士論文を執筆していてブログと論文では文章の書き方の異同を感じました。「何を当たり前なことを言っているのだ」と、思われる方もいらっしゃるでしょうが、彼のオットー・フォン・ビスマルクが言ったらしい「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」、すなわち「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」であるところの”愚者”である意味も、十分にあるということです。*1私はこうしたブログに何かを記述することもまた必要な行為なのだと感じるようになりました。

 

まず、論文とブログの文章の違いについて説明しましょう。ブログでは基本的に口語です。それはすなわち「読者が頭の中で文字を読む際、語りを聞いているように読める文章」を指します。これまでの文章も口語です。だからたぶん、ほとんどの人はあまり苦も無く読むことが出来たと思います。......私の文章力のなさを考慮しなければ。

 

ですが修論、つまり修士論文(学位論文)とは論述しなければなりません。これが辛かった。それは、頭の中に思い描いた”言葉”をさらに翻訳し、”文字”へと落とし込んでいかなければならないからです。一文書くのに一日かかるというのはザラです。

 

以下に修論の一部を記載します。

「まず,エンゼルプランに代表される従来の少子化対策が十分な効果を上げなかったため,政府としては施策の抜本的な見直しを行い,「イクメンプロジェクト」と「憲章」が定められた。」

 

如何でしょう、これまでの文章と比べて読みやすさを感じたでしょうか。概ねの人が読みづらいように感じると思います。当然です。口語ではないのですから。

 

これまでの話を一旦まとめます。当ブログは筆者の私の脳内外部メモリとして運用してきましたが、研究活動の中でその役割は別に移管されました。しかし、論文の執筆を通して口語的な文章の記述もまた必要なのだと再認識した、ということです。

 

ブログは外部メモリ足り得た?

そしてもう一つ、ブログの価値を見出しました。それは「特定の過去の自分の内面を理解する手掛かりになる」ということです。簡単に言えば、「なつかしい」のです。

 

例えば2019/07/15にアップロードした「言の葉に乗せること」という記事では、"文字"と"言葉"の違いに注目している辺り、2023/04/22現在の自分と何ら変わらない考えと、一般の方から見た時のある種面倒くささというものがにじみ出ており、私は"連続体"であることを確認できる一方で、2019/01/21の「くそったれうんちぶりぶり受験備忘録と受験ソング」という記事は、現在の自分では決してつけないタイトルと記事内容になっています。過激すぎる。

 

しかし、「くそったれうんちぶりぶり受験備忘録と受験ソング」はそれなりに、やはり脳内外部メモリとしての役割を十分に果たしているように思います。それはこの記事を読み返したとき、忘れていた実際に起きた事象とそれに付随する感情を、文章によって思い出せたからです。

 

このようにブログへ記事を投稿したことが、後の振り返りを可能にしました。そして振り返りによって「言の葉に乗せること」では”連続体”である(=変わりない)自分を認識できたし、「くそったれうんちぶりぶり受験備忘録と受験ソング」では”連続体”でない(=変容した)自分を認識できたのです。

 

これまでさっくりとこのブログの存在意義を自分に問うてみましたが、意外とぽろぽろと出てくるものです。この程度の文章量で口語なら大して苦でもありません。

 

おわりに

また、継続した記事を投稿するかもしれませんが、とりあえず生存報告と現在の自分をここに残しておくことにします。感想・ご意見等ございましたら遠慮なくご記入ください。

 

 

 

 

 

 

 

*1:これほど表現が異なるのは訳の問題らしい