頭ン中をたれ流そう

とりとめのない頭の外部メモ帳

冬がきてしまいました

 こんにちは。

 段々とテンションが下がってる気がする大学三年生。

 

 2019/11/20、いよいよこの秋田に雪が降りました。

 

 べっちゃ雪なので積雪!というほどではないものの、私のテンションをばっこり下げるには十分だ。

 

 なんといいますか、この感覚はもう冬がきたとしか言いようがない。

 うなるストーブからの熱気、首に回したマフラーの音、舞い降りる雪。

 

 かくも美しい情景のはずなのだが、なぜこんなにテンションが下がるのか。

 

 秋田の自殺率が全国No.1なのは絶対ここにある。

 

 

 なんせ今日はもう原チャで初ゴケした。

 クソ萎え。

 

 

 まあいずれ飯食って寝りゃ戻るんだろうが、そうしたところで全体的な活力は春夏秋の2/3くらいしかない。

 

 全体的にやる気がおきない。

 冬型のうつじゃねえか?(だとしたら都合よすぎる

 

 

 そして私は毎年、冬になるとなにかしらやらかしている。

 

 これは抑圧されたストレスの発散を間違えているからだと思うが...

 

 さて今年はどうしようか。

 

 食えば太る。

 遊べば金は消え。

 動きたくもない。

 

 だるすぎ、シェアハウスしようぜ。

鈴木先生を見て「これは俺のバイブルの一つになる」と思った。

 こんにちは。

 タイトルそのまんまなんです。

 

 大3の後期は結構講義数が少なくてこれまでよりも自由な時間が増えた。

 その分、これまで考えることのなかった自分自身であるとか環境であるとか、そもそも「考えること」にリソースを割くことが出来るようになって、かなりうれしい。

 

 そもそも私は考えることが好きだ。

 答えの出ないことでも答えの出ることでも、自分の知らない何かを見つけようともがくこの気持ちは、唯一無二の快感であると言い切ってしまっても何らおかしくはないとおもっている。

 

 無意識のままに生活することもそれは楽であるけれど、考えを巡らせることも大変すぎていけない、人間中庸さと極端さを程よく取り込まなければならないのだ。

 

 

 さて、前置きが長くなってしまった。

 突然だが鈴木先生という漫画をご存じだろうか?

 

鈴木先生 全11巻 完結セット (アクションコミックス)

鈴木先生 全11巻 完結セット (アクションコミックス)

 

  ↑これこれ

 

 この漫画に出会ったのは高校生の頃だったと記憶している。

 その時はまだできて間もない〇ンキに入っている〇ックオフプラスの漫画コーナーにポンと置かれているのを見て、タイトルから少し流し見をした。

 

 この時からこの作品に対して面白さを純粋に感じていたし、自分が外言化できない思いを的確かつ分かりやすい言葉で表現してくれる鈴木先生や、泥臭さや気恥ずかしさでごまかしてしまう思春期の生徒の気持ちをとても上手く表現しているこの漫画に何よりも共感していた。

 

 なおその場所にいたのは高三の冬だったと記憶している、完全に勉強から目を背けている。アホめ。

 

 そうして、なぜ、今日思い切ってキンデル版を買ってしまったのかというとだ!!!

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やってますわコイツ。

 

 理由は簡単、母がアマプラでドラマの鈴木先生を見ていたからだよ......ッ。

 おまけに一巻100とかいう破格だったからだよ......ッ。

 

 

 まあもう一つある。

 

 それは、自分が高校生から今に至るまでで多少なりとも「先生」という立場を想像できるようになったからだ。

 

 ファーストコンタクトの時は鈴木先生が話すことに、完全に自分のこととして聞いていたが、今になってセリフを聞けば「先生」である自分を投影しながら見ることが出来るのだ。

 

 そうやって、様々な自分を想像しながら読む中で、彼の言葉やその思いに熟考を重ね、彼の持つ信念を強く感じることができた。

 

 

 そういった彼の態度を見る度に、己の未熟さと残された成長の余白をも感じた。

 

 

 さて、本題だが、私は自分の中にバイブルと呼べる本・漫画がある

(安易にバイブルなどという言葉で自分の大切なものを飾りたくないが、私自身にそれを説明できるだけの言葉を持っていないという自覚があるのでそのまま表記する)。

 

 一つは「伊豆の踊子

 一つは「こどものじかん

 

きっとこの二作品が「あなたが大切にしている書籍は何ですか?」と聞かれた時に即答できるものだ。

 

 中身については今ここで説明する気はない。

 ただこの二つが好きなんだなと思ってもらえればいい。

 

 さて、両方に共通する、私が大切にしたいと思ったことはなんなのか。

 

 

 それは単純、感動したからだ。

 別に泣くわけじゃない。

 深く心を動かされたのだ。

 

 自分はこの本・漫画を読んでからしばらくの間悶々とあれこれ考えさせられた。

 

 そういったように、読んだ後でも自分の心を揺り動かして離れないからこそ、今でも読み直したり、すぐ答えられるくらいに覚えているのだ。

 

 

 人それぞれの感動がある。

 今回は書籍という一部分について切り取って考えてみたが、別にこのことだけではなく、様々な場面・雰囲気・場所・空気・モノ・人でも感動は起こりえるのだ。

 

 自分の好きなものをより深く知ろうとするだけでも、もっと好きになれるんじゃないだろうか。

何がしたいのかわかんないね

 こんにちは。

 地獄の実習期間が終わり、これから三回生の後期がようやくスタートするのですが、もう実習で二週間もえぐり取られたので第3Qの授業は一回たりとも休むことが出来なくなった。

 

 は?

 

 意味の分からなさは置いておいて、今日は勝手に感傷的になった自分を慰めるため、適当に思ったまま書いていこうと思う。

 

 

 さてさて、「皆さんが好きな季節はいつ?」などと聞かれたら何時と答えるのだろうか。

 

 私は断然冬。

 めちゃ寒いけど着こめば何とかなるし、空気の匂いが独特だし、何より雪が好きなんだな。

 

 でも反対に一番嫌いな季節が冬でもある。

勿論二年前の例のアレ(※アレ)もあるけど、やっぱり冬ってなったら自分が思い出す感覚は受験なんだよね。

 

 今でも鮮明にこの身へと刻まれた感覚は剥がすことが出来ないままに、冬という季節の訪れを感じる度に思い出されてしまう。

 何をしても曇りで、みんなピリピリして、余裕がなくて、先が暗くて。

 

 本当に嫌いだったな。

 何が嫌だって言ったら少しも面白くない空気だったこと。

 

 当たり前なんだけど、みんな非常に真剣だった。

 あの、お互いに刺し合うかのような気持ちは少しもうれしくない。楽しくない。

 

 

 いやだなって思ってた。

 そしたらまた久しぶりにその感覚に襲われた。

 

 来年の自分の進路について考えてたら先行き不透明過ぎて悲しくなってきた。

 どうしてやろうか。

 

 でもいずれかは考えなくてはならないし、自分の将来は外因ではなく内因で決めてゆくべきだと思うから、ここで自分のやりたいことを曲げる気はない。

 

 だからこそ不退転の決意で選択しなきゃいけない。

 自分が何者になって、自分が何を為して何を成すのかを。

 

 

 正直、自分は大変な臆病者だと自覚している。

 争いごとを避けている。

 自分が無能だって知りたくないんだ。

 

 だからなるべく頑張ってない自分や仕方ない理由を探したり、戦いそのものを避けたりするわけ。

 

 でもダメなんだよなそれって。

 自己研鑽しなきゃいけない。

 目に見える数字でも、人が感じる人柄でもなんでもいいけど自分をより前に進めなきゃいけない。

 

 夏目漱石の小説「こころ」でKが言っていた、

 

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

 

 この言葉。

 今の自分には刺さるなァ...。

 

 

 なんだかヘラヘラしてる場合じゃない気がしてきたよ。

 

 たまには真面目に目前の課題へと取り組んでみるべきなんじゃなかろうか。

 

 

 いつまでも、あると思うな親と金。

 果たして君の生活は何によって成り立っているのかな?

 

労働の対価にあるものは金でしょ

 こんにちは。

 

 テスト期間が終わって夏休みに入ってから色々ありましたが、今はとにかく目前の実習に追われて大変にツラいです。

 

 もう大学始まってんぞ!

 

 いや、ほんと何もしたくない。

 

 日誌も指導案もなんもしたくないね、勘弁申し上げますわ。

 

 「教えてもらってると思わないといけないっしょ」みたいなことを言われるんですよ。

 

 わかる、そうね、本質的にはそうなんだけどね。

 

 

 ならさ、やることやったらさっさと帰らせてくれよな。

 

 なんで出勤と退勤が普通の労働と同じ時間なんだ...。

 

 

 俺がこんなにもイヤイヤ言ってるのはこの実習をするにあたっての適当な理由を自分に見つけられないからであって、

 見つけられればまだどうにか乗り気になるのだろうか?

 

 

 子どもはかわいいですよ。

 言うこと聞かんし止めろ言っても止めんし食べ方汚いし落ち着かないしうるさいけれど、そんなもん全部ぶっ飛ばすくらいかわいい。

 

 いじらしいというか愛らしいというか。

 

 どうしてでしょう、公園で駆ける子どもの背中が陽に当たっているのを見ていたら無性に泣きたくなったのです。

 

 うん、あれ見るだけでも行く気にはなるわ。

 

 

 でもせめて毎日の日誌は手書きじゃなくていいじゃんねとか思うのはなんかちがいますかね?

 

 やっぱ幼稚園教諭になりたいな。好きなことを職業にしたいもの。

晩夏を迎え、秋を待つ

 こんにちは、夜と朝は寒いくせに昼には程々暑くてエアコンなしじゃ寝られないこの時期に少しイラつく大学生。

 

 夏らしい夏も終わりを告げ、早速台風と雨の予感だ。

 

 私の夏はどこへ消えたのだろうか?

 

 試験勉強、レポート、夏期講習、実習。

 

 おわり。

 ふざけんな。

 

皆さんはいかがだったのだろうか、きっとお盆に帰省したものもいれば地元に戻らず大学にこもりっきりだったものもいるだろうと思う。

 

 実に、長く苦しい時代だった。

 

 が、我々は勝ったのだ!

 無限とも思えた、あの迫る期限と単位の悪夢から逃れ得たのだ!

 

 こうして私も朝の五時からまったりとブログなんぞに現を抜かすことが出来る。

 いやァ、大学生サイコ~。

 

 

 そんな話はこれくらいにして。

 

 もう肌寒いおかげで嫌でも意識せざるを得ない、これから訪れる秋とあのクソ寒い冬。

 

 またお前らか、勘弁してくれや。

 

 けれどもそういった節目にいることで感じられる、何とも言えない不定形の気持ちは決して不快なものではなく、面白さと儚さを持っている。

 

 過ぎ去った季節に後ろ髪をひかれる思いのまま、前に現れる新たな季節。

 

 時間とは無情だ。

よく言われるように誰にも等しく、かつ残酷に過ぎ去る。

 

 あっという間に自分は「大人」としての肉体をまとい、幼い精神の実感を引き摺りながらここまで来てしまった。

 

 こうやって各々の季節に「思いを馳せる」といった行動もまた一つの物悲しさ(無情)であることには間違いあるまい。

 

 しかし、これは成長であり、決して生物としての破滅へ身を進めただけではないと思うことが、常に虚無感に立ち向かう秘訣だ。

 

 この世は無常だ。

無情でもあるけれどどちらかというと救いがないわけでもない。

 

 こうして季節の移ろいに人生の先を憂いてみたけれど、

 

 果たして来年・再来年、更に十年後。

 

 

 自分はどうなっているのかな?

 

 少なくとも希望が持てると良いね。

 

 

 

 

幽霊の所在

この記事は少し前に書き上げて途中だったものですが、めんどくさいのでこのまま登校します。許せ。

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 こんにちは。

 

 夏休みはもう訪れましたか、僕にはまだ来ていません。

 

 毎日うだるような暑さで、カッと照り付ける太陽が陽炎を作り出し、現実とあの世をつなぐ地平線を産んでいるような気さえします。

 

 

 幽霊って存在すると思いますか?

 

 僕はであったことがないので全く信じていません。

 したがって神も同様に信じていません。

 

 けれど自分が信じたい存在はしんじるようにしています。

 勝手だけれど。

 

 でも幽霊を信じる人は少なからず存在するし、夜中にお墓の前は通りたくない。

 全身の野生が「やめとけ」っていうんですよね。

 

 いわゆる皆さんが抱いている幽霊というのはどんなイメージ・存在なのでしょうか。

 

 

 

 

蛍を見た

 タイトル通りです。

 

自分という存在が別の次元へとアセンションした気分の大学生。

 

 蛍を見た。

 今日はものすごく暑かったのできっと見れると思っていた。

 

 曳山もあった。

 二日目にもなったあの祭りはカッと照り付ける太陽によって余計に浮き上がった存在のような気がする。

 

 正直言って今日の記憶はあるのかないのかあやふやな気がする。

 夏っていつもそうだ。

 

 皮膚を焦がし、アスファルトの臭いを持ち上げて、目を眩ませ、まるで紙船のように頼りない安定さの意識に縋ざるをえない、あの夏。

 

 生も死もあるのかわからないぼやけた水性絵の具。

 

 記憶というあいまいで不確かなものは信じられない、自分が一番信用ならない。

 

 いずれ、きっとそうだと覚えているのは「暑そうだから蛍が出そうだ」ってことぐらいである。

 

 そして蛍を見た。

 

 二・三匹は見れた。

 

 目が悪いせいなのか後ろの街燈が邪魔しているのか車のヘッドライトが乱すのか、全然わからないけれども、蛍がいたと思う。

 

 彼らはか細い光をつけてはけして、つけてはけして。

 

 今思い出そうとしても目の奥で何か視神経がイカレてしまったから蛍のようなものが見えたんじゃないかとか思うくらい、蛍たちはぼんやりと存在していた。

 

 写真にも撮れなかった。

 

 記憶を記録とするためにも写真は撮らなくちゃいけないのに、

「それは違うね」

 って気持ちが撮ることを拒んだ。

 

 なんで撮らなかったんだろう。

 

 

 

 蛍かと思えば星空があった。

 

 自分とこから見るよりもずっと沢山で明瞭な星がたくさん瞬いていた。

 

 見ている光はずっと前のものらしい、分からんけど。

 

 ごろりと何もしかずしてアスファルトに寝転ぶと、少しばかり痛いけれども、それよりもずっときれいな星空が自分の眼の限界まで映るから気にならない。

 

 でもその中にも蛍みたいなやつもいた。

 

 そいつもいるかいないか分かりづらいヤツだった。

 

 

 自分もそうなのか気になった。