頭ン中をたれ流そう

とりとめのない頭の外部メモ帳

働け才能

 僕は塾講だ。

 

 あんだけお勉強せんかった高校を思うと自ら進んで勉強せにゃならん道へと進んでいるのかわけがわからない。冷静になってみると随分頭おかしいことしてるな...。

 

 とかなんとか思うけれども実際生徒に勉強を教えることは楽しい、まだ彼らと年が近いことも多分にあるとは思うがフツーにコミュニケーションをとってくれる。

「オレ...生きてていいんだァ...!」

 と五臓六腑に染み渡る自己承認欲求の解消と生の快感を享受できる当たりが最高にウマいのだ。

 

 勿論勉強を教えてもずいぶん楽しい、点数という分かりやすい尺度は一朝一夕じゃ動いてくれないが長い期間をかけて自分が担当することの多かった生徒がそこの点数を上げてくれるとわかりやすくやりがいなんてものを感じてしまう。

 

 んじゃあアンタ小学校教員なり中学校教員なりしなさいよと思うかもしれないがこれには大きな違いがあってだな...詳しいことは省くが講師と教師の違いは生活にまで指導するかどうかってところがある。

 要は(すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。)義務教育なるものは勉強だけでなく日本国民として生活するために必要な生活/社会性スキルを磨くために 行っているわけであって、教員はその手本なのだ。

 

 わかるでしょう?僕に人間的な手本なんてむりです。むりだよむり。だから僕らしさを前面に出しても教えること教えれば文句言われない塾講がちょうどいい。

 (僕みたいな変人を相手する生徒も大変だなと思うけれど、僕も君らの覚えなさも大変だぞ。こちとらどうやって為替を理解させようかまだ悩んでるんだいい加減にしろ。)

 

 実際やれば肉体労働ではないにせよ頭脳労働と常にコミュニケーションを求められ、かつ留まることなく成長・進化を求められている業種である故の新陳代謝に苦労する。私は偶然マッチしているからここまで溌剌とやっているが 合わん人はコンビニ労働よりツラいと思う。

 だから安易に進めたりするつもりはないが、この得も言われぬ気持ちよさを感じて働いている私を見たらきっと

「塾講も楽しいもんなのかもしれない」

と考えると思うよ。