頭ン中をたれ流そう

とりとめのない頭の外部メモ帳

人魚の眠る家を見た感想

一度どちらかを見てから、この記事を見ることをお勧めします。

あくまでもあらすじを載せるつもりはないので。

 

 人魚の眠る家を小説・映画の両方を見た。

 順番は小説から映画を見たのだが、見終えた今となってはそれでよかったと思っている。コレ逆だったらきっと私の頭は上手に整理できなかったかも?

 

 見る動機

 まず、私がこの作品について興味を持ったのは友人がアツく推していたからである、人間の動機なんて軽いもんでございまぁ。

 何より興味を引いたのは「女性なら泣けるかもしれない」という彼の一言だ。この時点でゴテゴテの恋愛ものかと要らん事を考えたが、そんなことはなかった。

 そもそもそんなんだったらあんな言い方はしないな...と考えて、公式サイトのあらすじを読んだのだがこれまたびっくり。めっちゃ重いじゃん、こういうのスキー!というとで早速祖母に借りて、その日のうちにさっくり読んでしまった。

  

小説版(原作

 流石は東野圭吾、ものすごく読みやすい文体と引き込まれる展開はページをめくる手を止めさせはしなかった。(幻冬舎から出てる彼の小説はこれとプラチナデータしかないことに気が付いたのは秘密だ。)480ページ程度を四時間弱で読めたので休日の合間に読んでもそんなに時間はかからないはずだ。

 私は小説から見始めることをお勧めする。やはり小説のほうが細かい心理描写を表現しているので各人の心情が想像しやすく、さることながら山場の緊張感は目の前で起きているかのような臨場感だった。

 

 こちらでは事細かに描かれる薫子の存在がより一層の狂気/愛を表している、なるべくしてなったというか、次第に底知れぬ沼へと沈む様を端で見ている気分だった。この確実に悪くなっていく空気感は小説であるからこそ表現できるところだと思う。

 

 さて夫の和昌、こいつは結局最後まで物語の語り部的存在に落ち着いていた。言ってしまえば彼は過度に表現された男の仕事人間であって、妻の薫子を際立たせるために必要なスパイスになっていた。多くの男性はおそらくきっと、彼に自分を重ねつつ小説を読むことになるだろう。

 

  小説のエンドは必要最低限のハッピーを携えた報われるエンドだった、これくらいの幸せのほうが現実味があっていいと思います。全体を通して淡白に落ち着いた小説だったと思う、やっぱり東野圭吾だ。

 落ちは読んでのお楽しみ。

 

 映画版

 小説を読了した達成感と頭の中を巡る思考は

「とりあえず映画を見てから考えよう」

 と二時間後の自分に託すことにし、とりあえず駆け込んだ。

 友人の言う言葉に納得する点がほとんどだった。演技は真に迫るものを感じ、狂気/愛を孕んだ母であることをスクリーンを通して私に訴えかけてきた。感服。

 

 話の大筋は小説版と概ね同じだったがちょいちょい改変が加えられていて、良くも悪くもあった。

 数が多いしネタバレ要素を含むためこれ以降は注意されたし。

  

 一番の改変は星野君のご乱心じゃなかろうか、小説では和昌に言われて抵抗したものの研究をする理由だった薫子からのお払い箱宣言でその後は潔くフェードアウトした。真緒ちゃんとは別れた後復縁を遂げたんだったかどうだったんだか?

 まぁ脇役に過ぎなかったわけであって、やはり彼も薫子の存在を引き立てる要素の一つに過ぎなかったはずなのだが、映画では何を思ったか和昌に直接「奥さんと娘さんを育てる私に嫉妬してるんじゃないですか」などと意味わからん事抜かし、結局真緒ちゃんの元に戻ってった。クズ。

 

 精神科医で薫子の不倫相手や訪問教師は映画から消されていた。これはまあ無くても成立するものだし、正直消されることは容易に想像できたためそんな衝撃も受けず。

 

 この作品の根幹にあるのは母の狂気/愛であるため、それを表すにはこの二時間という制約はちょっとばかし厳しいものだったと言わざるを得ない、そのために小説にはなかったあのスケッチを追加したことによって彼女の狂気(愛)を愛(狂気)へと変容させたのかと思うが。

 

 如何せん小説を見てからなのでどうしても小説版との比較になってしまったが、映画としてはある程度まで完成されたモノになっていた。小説ではわざわざ登場人物にしゃべらせなかったことをセリフにして言わせたり、和昌の態度や多方面での幸せを表現することで陳腐化している点は否めないがそれでも映画単体として邦画独特の後味を残して終えられていたのは評価に値するんじゃないだろうか。

 

 総括

 別にどっちがいいとか悪いとかそういうことではなくお互いが独立した作品として

「一つの到達点に達した」

んだと思う、私は小説のほうが好きだけどね。

 

 結局両作品から感じたのは母の子に対する感情をとするか狂気とするか、この決定を見る人に委ねていた。

 

 夫は浮気で別居中、入学したら即離婚だと決めていたところに襲う我が娘への残酷な現実。不幸の中で育まれた幸福は一瞬のうちに絶望へと変化し、失いかけた娘を生きていると思いたくなる母としての気持ちを慮るならきっとこの物語は美しいものに映っていただろう。(映画版では見る人を狂気と見える側に寄せて母の愛を表現していたのだろうか、少々難しいところである)

 

 一方和昌からすればずっと負い目を感じた家庭への不幸、嘆く妻を尻目に己の罪悪感を拭うため持ちうる技術と金を投資し、娘の状況は見違える程に改善した。ただ彼はずっと父というより第三者としての態度をとっており、その結果として妻の行動を狂気と見る視点を獲得したわけだ。(この作品を見る人が子を思う気持ちを途中で理解できなくなった場合にはそう見える)

 

  小説版を見ているときはずっと和昌に自分を映してみていた、だからこそページを捲る度に変わる状況を悪化していると捉えたし、恐怖を感じていた。もちろん彼女の感情や思考は分かっていても勝手につけられた常識フィルターがこれを『狂気』だと見ていた。

 しかし映画版では徹底して母の気持ちになり、深く子を愛する存在として薫子へ投影してみればなるほど。これは母としてやってやれる最高の愛情表現であるとも考えられる。生人がその分瑞樹の生贄となっていたのは見てて心苦しかった辺り、母にはなれても薫子にはなれなかったようだ。当然泣いたが。

 

 さて

 父と母、男と女という全く違う生き物。

 あなたはどちらの視点で彼女の行動を見るだろうか、是非一度考えてみてほしい。

 

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)